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≪読売新聞 夕刊囲碁・将棋欄掲載コラム≫ (全4話)

 

《第1話》 

「能楽師です。趣味は将棋。」

こう自己紹介すると、相手はどちらの話題で切り返せばいいか戸惑うか、もしくは絶句する。だめ押しは「愛読誌は将棋世界と週刊将棋です」。取り付く島のなさ感は盤石である。

正確に言うなら、私の趣味は将棋観戦である。実際には指さない。開始後数手で長考に沈み、投了するのが目に見えているからだ。
それでプロの対局を理解できるのかと不審に思われるかもしれないが、野球のルールに精通していなくても試合を観て楽しむことができるのと同じ、と理解している。

そもそも私と将棋との出会いは、公務員の仕事を退職し能楽師になるべく修行を始めた時期と重なる。
棋士の応援サイト運営を手伝うほど熱心な将棋ファンが身近にいたこともあるが、大盤解説会に通い詰めるまで将棋に惹かれたのは、将棋と能楽に相通じるものを感じたからだ。
将棋盤(能舞台)の上で、伝統に培われた定跡(能の型)をツールに、対局相手(囃子など共演者)と読みの深さを競い合いながら、完全な自己責任のもと自らの世界を創り上げていく、という点にいたく感動したからである。

能楽はその芸質上、動作は極端に簡素化される。ゆえに一、二足の差で全く違った表現が生まれてしまうが、駒を一マス動かすかどうかが形勢に大きく影響する点においても、将棋と能楽の共通点を見出だすことができる。

この点については次回、さらに詳しく述べていきたい。


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《第2話》

将棋と能楽に相通じるものを見出すきっかけになったのは、公開対局だった。初観戦の記憶は今でも鮮烈に残る。

舞台には将棋盤がぽつんと孤高を保っていた。勝負オーラのない関係者が揃って対局開始。戦法も形勢も皆目見当がつかなかったが、何物にも代えがたい大事な一局に立ち会っていることだけは理解でき、思わず背筋を正す。

駒が「跳ねる」「飛ぶ」といった躍動感溢れる表現は、狩野派の「走り駒」を彷彿とさせる。「カニカニ銀」「地下鉄飛車」などの比喩を多用した用語も、なんとも面白い。 「穴熊」があるのならイノシシもいるのか、無知ゆえの想像力は尽きない。

対局者は、盤上で静かに会話していた。細やかな指し手を積み重ねつつ二人の世界を創り上げていたが、終盤、やおら斬り合いになった。
相手を尊重しながらも自らの衿持を保ち、無我の境地で将棋の神を追い求める。全くもって、舞台での能楽師の生き方そのものだ。
妙手の応酬に会場がどよめく。ただならぬ雰囲気は、なにやら物凄い手が指されていることを教えてくれる。
限りある升目に数限られた駒、なのに無限の世界が広がっている。

やがて、敗者が声を絞り出し投了を告げる。審判でも勝者でもない、敗者が舞台の幕引きをしたのだ。能を舞いきった後の充足感に似た感覚が心に染み入る。
すべてを終え、舞台は戦いの余韻を片鱗も残さず、将棋盤だけが残った。

能は、舞台に何もない「無」から物語を創り、演者が退場してまた「無」に戻る。将棋もまた同じ芸術であり、日本文化の極みと感じ入った。  

 

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《第3話》

私が将棋を愛してやまない理由の一つに、棋界の方々との交流がある。
それはまさに橘中楽、修行に明け暮れる日々の一服の清涼剤である。

佐藤康光さんは、棋聖防衛祝いの席で謡を披露させて頂いたことなどからとりわけ親しみを感じるが、能楽堂に足を運ぶ棋士であるという点で、殊更印象深い。
弟さんが歌舞伎役者(市川段一郎丈)なので伝統芸能は身近な存在だろうが、棋士が能を鑑賞するのは能空間が生産的な場所だからだろう。
例えば免疫学者の多田富雄博士が「能空間は不思議と熟考できるところ」と語っていたのは、興味深い。

世阿弥が確立した能の形式「夢幻能」は、あの世とこの世の者が交信する手段として、あの世の者を亡霊としてこの世に送り出す。
能は所作も感情表現も極端に抑制されるので、観客は対局中の棋士の脳内活動と同じく、感覚を研ぎ澄まし想像力をフル稼働させる。
亡霊はこの世での未練を吐露し、それによって魂は浄化・昇華されていく。観客は亡霊の苦しみ、救済と克服(成仏)に思いを馳せ、自分の行為として置き換える。
そして自らを客観視して自省し、感情を昇華させその暴走を抑える。
これにより過去も未来も冷ややかに吟味されて、原因から結果への過程をたどる作業、将棋で言うところの感想戦がなされる。

羽生善治さんは、「感情をうまく使うというか、一つの起爆剤にすると、それが大きな集中力やモチベーションを産む」と語る。将棋と能楽の接点を見出すと、ますます将棋に魅了されるのである。

 

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《第4話》

「せぬひまの前後をつなぐべし」


世阿弥の芸論「花鏡(かきょう)」には、為ぬ隙、つまり技と技とを繋ぐ沈静した「間」こそ、緊張が持続され意識の充実がなされるべき、という逆説的真理が説かれている。

能楽における「間」で特筆すべきは、「道成寺」の眼目「乱拍子(らんびょうし)」である。情念のあまりに蛇になった女が、愛しい男を追って山門の階段を一段一段上がる様を表現した舞事だが、シテ(舞手)と小鼓奏者との長い沈黙に支えられた、20分余りの神経戦である。

両者は深呼吸を一つか二つといった約束で「間」を取り、小鼓の掛け声と打音がシテの動きを極限まで制する。無音の「間」を共有し充実させることで、深い情感が生まれる。

「間」の充実に心を砕くといえば、対局中の指し手と指し手の「間」もまた、とても興味深い。
「せぬひま」に棋士が醸し出す、一本筋の通った緊張感。それを内に秘めた沈黙を両対局者が共有し、その沈黙が凝縮を重ねてついに一手となって湧き出るのは、「乱拍子」に通じるところがある。
脳を極限までフル稼働しながらも、表面上は淡々と流れて見える意識の充実が、滲み出てくるように感じるのだ。

「間」は、心の充実を相手が感じ取ることで成立する芸術だと思う。将棋をはじめとする伝統文化の普及が叫ばれる今、大上段に構えた啓蒙ではなく、無心に触れ合い「間」の妙を共有し、伝統に培われた普遍的な心の在り方を浸透させることも、普及の一形態ではないか、と思うのである。

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≪大学生によるロングインタビュー≫ 2017年12月4日

 

第1章  駆け出した青春時代
(1)武士道に出会う 能楽を軸に様々なことに挑戦し続けている 宮内さん。その追求心は幼い頃からのもの でした。


—幼少期に夢中になったものなどはありま すか。

外で活発に遊ぶことが好きでした。習い事 では剣道が一番はまっていましたね。

 

—剣道を始めたきっかけはなんですか。

出身地の水戸にある江戸時代の藩校「弘道 館」を訪れた際、絵巻物に描かれた武士の 姿を見て惹かれたのがきっかけです。子供心 にその絵の中に“武士道”を感じたとともに、 「剣を持ち、互いに面識のない相手と命の やり取りをする武士の気持ちはどんなもの なのだろう」と考えたら凄く気になる存在 になりました。

家庭の方針が厳しいため両 親には反対されましたが、「それでもやり たい」と強く思い、泣いてお願いをして近く の道場に通わせてもらいました。


―剣道を始められた後の印象はいかがでし たか。

技術的な強さを超越した「気合い」で戦う のだということに驚きました。私は最初、 気で相手を圧倒するということがよく分か らず先生方に質問しに行きました。その時
に「試合中は相手だけを見ろ」と言われま した。これは無我の境地というもので、 「上手くやろう」「上手く見せよう」とい う気持ちが全てなくなった瞬間に良い結果 が生まれるということなのだと後々気づき ました。


ーなるほど、精神的鍛錬も大切だったので すね。そうした精神的訓練は今も続けられ ていますか?

無我の境地は能にも共通するので、訓練して いるといえばそうかもしれません。能は、 邪念を捨て、気合いと感性のみを自分の中 に残せた時に良い演技ができるのだと私は 思います。この緊張した空間を気持ちいいと 思える程にまで極めることができたのは、 剣道のおかげではないでしょうか。


―幼少のころから興味のある物に対しては とことん突き詰める性格だったのでしょう か。

そうですね。好奇心旺盛で、気になるもの はどこまでも探求を続けるのは昔からでし た。 その反面、興味を感じられないものに関し てはそうでもありませんでした。3歳からお 稽古ごととして習っていたバレエやピアノも 16年程続けましたが、どうにもこう剣道ほ どは夢中になれなくて...


宮内さんの経歴のバックボーンと言える幼少期から大学生時代まで、 どのように過ごしていたのか、その素顔に迫ります。
(2)津田塾大学への進学

親の言うことは絶対、という厳しい家庭で 育った宮内さん。その中で、自ら選んで進 学した津田塾での学生時代について伺いま した。

 

—津田塾への進学の経緯を教えてくださ い。

そもそも親からは「大学に行くならば女子 大のみ」と言われていたため、共学に行こ うという選択肢はありませんでした。 高校三年生の頃に学校訪問の機会があり、 キャンパス内で実際の学生の方に大学のこ とを伺ったのですが、他の大学の学生は大 学の利点や魅力を語る一方、津田塾の方は 「うちの大学は甘く見て来ると辛いよ」と 言ったんです。普通は言わない厳しい面を 清々しく語ってくださった事に感動しまし たね。そして「では授業はどうですか?」 と尋ねたところ「すごく楽しい」とその方 は仰っていました。その時になんだかしっくりと来て津田塾を受けることに決めたん です。


—津田塾での学生生活はいかがでしたか?

思い出深いのが、他大学の授業によく潜り に行ったことです。国際政治のゼミの先生 は「津田塾にとどまらず他の大学に潜って おいで」という方針の方で、ICUや東大に よく行っていました。そういう意味では、 ものすごく自主性を重んじていて、やりた いことがあれば好きなようにやらせてくれ る自由な学生生活だったと思います。 また英語を実践的に使うことにも興味があ ったので、潜りに行った先の大学で留学生 が団体でたむろしているところに入り込ん だりもしましたね。こうした人との触れ合 いの中で価値観がぶつかる経験をしたこと は私の人生の糧となりました。現在私は英 語で能を通訳する仕事もしていますが、「相手にどう伝えよう」と考えた時に当時 の記憶が生かされているなと感じます。
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—国際政治を専攻することに決めたきっか けはなんでしょうか。

高校二年生の時に祖母に連れられ聴きに行 った講演会がきっかけでした。その時はア メリカから先生が見えていたのですが、 「国際政治、つまり国と国の交渉は文明論 であり、国と国とが諍いをする上で文明論 が軸となる。それゆえ相互理解とかそうい ったものは一切無駄だ」と仰ったんです。 西洋と東洋が争うのは文明論だから、分か り合う必要はないという主張です。私にと って文明論という言葉は耳馴れませんでし たが、とても恐ろしい考えだということは はっきり感じました。その講演後、国際政 治の本を読み出し更に興味を持つようにな りました。


ー大学での勉強や様々な経験も経て今の宮 内さんにとっての「国際政治」とはどうい うものでしょうか。

基本的に人は、日本人も外国人もどの人 も、心からの悪人はいないと思っていま す。やはり国際政治は「人」があってこそ のものだと思うのです。違いを分かりあい 心理や文化レベルで交流しあっている以 上、争いは激化することはないのではない かと思うのです。
   
第2章 決断の30代

国際政治への関心から原発の問題にたどり着き自分の目で確かめたいという思いから 官庁で働き始めた宮内さん。官庁でのお仕事から能楽に出会うまで どのような経緯があったか、本章では能楽師へと転職するまでの決断に迫ります。

 

(1)官庁への就職 大学で科学技術庁(現文部科学省)に関心を 持ち、見事就職を果たした宮内さん。  

そこでの7年間には、やりがいの裏に大き な葛藤がありました。


—数ある省庁の中で科学技術庁を選ばれた のはなぜでしょうか?

ちょうど就職を意識し始める大学三年生の 夏、日本がフランスからプルトニウムを輸 入したことが報じられました。 これは国内世論のみならず世界的にも是非 が問われるほど大きな事態だったのです が、国際政治を専攻する自分としては特に 関心を持ちこの問題に取り組んでみたいと いう思いから原子力にもっとも関係の深い 「科学技術庁」を選びました。


―科学技術庁というと我々学生にはあまり 聞きなれないのですが、どのようなお仕事 をされていたのでしょうか。

私の主な仕事は科学技術庁が携わっていた プロジェクトのトラブル対応でした。その 中には国会議員からの質問も含まれていた ので、その対応のために徹夜で待機するこ ともありました。そのため、2時に帰宅し 翌朝7時に出勤…というのが日常でした。


ーかなり体力が必要となるお仕事だったよ うですね。

そうですね。しかも所属する部署にいた女 性は私一人でしたので、仕事は男女関係な く降ってきました。そういった部分は嬉し さを感じる反面、辛いなと思うことも多々 ありましたね。自身の体調などは考慮して もらえないので。


―そんな過酷な環境を乗り越えたからこ そ、成長したと感じることはありますか?

相手を思いやる気持ちを学んだことでしょ うか。女性は私一人でしたので、夜食など を購入して部署に持って帰るのは私の役目 でした。周囲の人が疲れているのを見計ら って、コーヒーを運ぶことなどもしていま したね。そのコーヒーも、味の好みやそれ ぞれのカップの種類を事前に把握していま した。どのようにしたら相手が喜んでくれ るか、心を許してくれるかは正に官庁時代 に学びました。


―大変さを感じることも多かったと思いま すが、お仕事のやりがいを感じることもあ りましたか?

関わっているプロジェクト自体は大きいも のでしたのでそれなりのやりがいは感じて いました。しかし業務の殆どがトラブル対 応という点では負担も大きかったです。こ うした仕事はトラブルで傷ついた人々がい るということを踏まえながら対応しなければなりませんでした。また負の側面と向き合 ながら業務を進めることは、自身が真摯に向 き合っている仕事が、誰かにとってマイナス に動いていることを直視しなくてはならない 作業のため、苦しいものでもありました。


ー精神的にも大変なお仕事だったのですね。

そうですね。その上7時出社で2時帰宅の毎 日でリフレッシュをする時間も取れず、メン タルを保ちながら仕事をすることはかなり困 難でした。ポジティブになろうという気も起 きず思考は完全に停止した状態でしたね。


(2)能楽との出会い

そんな官庁での仕事の中で、上司の忘れ物を 届けに行くという偶然が宮内さんと能を出会 わせたのでした。


ー能と出会ったきっかけは何でしょうか。

あれは2002年6月、私が32歳だったときです ね。上司が能の公演の鑑賞に行っていたので すが「忘れものをしたから、能楽堂に持って来てくれ」と電話で呼び出されたんです。そ して私が届けて帰ろうとしたら、上司から客 席にあまりにも人が少なかったのでせめてサ クラとして座るように言われそのまま観劇す ることになりました。


ーその時の公演の記憶はありますか?

当時の私は能楽と聞いても、日本史受験用語の世阿弥 しか知りませんでしたから、正直に第一印象 は「これから二時間能楽の時間か、いやだな ー」というものでした。始まってからも全く わからず冒頭5分でウトウトしてしまいまし た。1時間ほど経って目が覚めたのですが、 寝る前の光景と起きてからの光景が全く同じ だったもので驚きましたね。全然演者が動か ないなんて…どういうこと?というのが観終 えた第一の感想でした。

しかし帰宅後にも 「こんなに訳の分からないものが700年続く のは一体どんな理由があるのかしら」と、な んだか頭を離れず能を知りたくなりました。

 

ーネガティブな第一印象だったにも関わら ず、どうしてそこから能楽師を目指されたの でしょうか?

公演の翌日になっても「能楽はよくわからな いものだ…」と思いつつ、どこか気になって いる自分がいました。しかし理解しようにも 書籍は難しそうだ…と思った時に「よし!実 際に習ってみよう」と思い立ったんです。そ してパソコンを開いて、検索結果に表示され た中で一番トップに出てきた能楽師の先生に コンタクトを取ることにしました。お電話を したところ「今空いているから来てくださ い」と言われ、そのまますぐ稽古場に向かい ましたね。

ー最初の一歩となる行動力が素晴らしいで す!稽古を始めて能楽師になるまでの三ヶ 月についても聞かせていただけますか?

稽古を始めて3か月後に発表会があり、私 は2分間の舞を披露することになりまし た。しかしあまりの緊張で何もできず、師 匠に引きずり降ろされるまで棒立ちしてしまいました。散々な初舞台ではありましたが、思うよ うに体が動かなかった瞬間「体で理解する のは単純なことではないのだな。能が700 年続く理由というのは、古来から続く私た ち日本人の価値観や感性を理解するところ から始める必要がありそうだ。そこまです るにはもっと究めなくては…」と思ったん です。そしてその日、プロになってもっと 能を知りたいという気持ちが芽生えまし た。


—能楽師になると決めた時、周囲の反応は いかがでしたか?  

発表会での失敗のこともありましたの で、まず師匠には一番驚かれ反対されまし た。また師匠が反対したのは能楽界の性質 的な理由もあります。能の世界は世襲制で あるため、能楽の家の子供は生まれた時か ら能楽師としての英才教育を施されます。 そんな人と渡り歩くのにすでに30歳の自 分では追いつかないと思われるのも無理はありません。

さらに能は男性社会で、衣装 も男性の体で演じられることを目的に作ら れています。視界がほぼ見えない能面を被 った状態で20キロ近くある衣装を着なが ら舞うことは女性にとって体力的に厳しい というのが師匠の考えでした。

大親友、上司にも反対されました。上司か らは「きっと君は疲れているんだ。心療内 科に行くといい。」と勧められたぐらいで す。さらに家族にも反対され、父からは勘 当とまで言われたくらいです。


—宮内さん自身は悩まれませんでしたか?

もちろん悩みました。髪が抜けてしまうほ どでしたね。まず一番の悩みは官庁です。 官庁の仕事はそれなりの知識・経験を要し ますので、そうした人が一人抜ける打撃が 強く代わりを見つけることも大変です。そ れ故私の業務を引き継ぐ誰かに負担をかけ てしまうことを申し訳なく感じました。ま た友人や家族全員からも指摘されたのが 「収入の不安定さ」についてでした。能楽 者の道に進みプロになれたとしても生活し ていける保証はありませんからね。


—お稽古として能を続けようとは考えませ んでしたか?

確かにお役所の仕事をしながら稽古すれば 生活も安定するし、能も続けられます。そ れでも私は日本人の価値観、感性、道徳や ものの見方、考え方が全て詰まった能楽に ついて深く知りたいと思ったんです。「武 士道」の結晶とも言える能の本質を知って しまった以上、私はお金を払ってお稽古と して褒められながらやるだけでは能を探求 できないと思ったんです。

—最後はどのように決断をされましたか?

本当に1ヶ月悩んだ上で最終的に「一回き りの人生だし思う方に行ってみることも必 要なんじゃないかな」という思いにたどり 着きました。恐らく失敗するとは思いまし たが、死ぬ訳ではないのだからまずはやっ てみよう、そう思ったら踏み出す勇気が湧 いてきたんです。 それでもまだどこか悩んでいる自分がいた ので、辞表を提出する前日の夜に「朝起き てまず頭に浮かんだ方にいこう」とついに 腹をくくりました。そして翌日の朝、官庁 に辞表を出したんです。

この決断が私にと って初めて両親の反対を押し切って、自分 だけで決断したものでした。もし能の道を 進んでいなければきっと今頃両親に従って 結婚して子供を産んでいたんだろうと思い ます。この決断はそれほどまでに私の人生
の分 岐点にな りま した。


第3章 能楽師として 踏み出した40代

いよいよ能楽師へと進み出した宮内さん。 怒涛の内弟子時代を経て能楽師デビューするまでのエピソード そしてこれから目指す道を伺いました。


(1)住み込み時代

2003年3月から8年間住み込みで修業をし ていた宮内さん。当時が一番辛かったと 振り返る一方で、辛いことにも意味があ る、と感じたようです。


-当時の生活について教えてください。

能楽師の見習いは書生として、能楽師の 先生に弟子入りし住み込みの修行をする ことになります。住み込みと言ってもみ っちりと稽古をつけてもらえるわけでは なく、基本的には師匠の身の回りの世話 から能の公演のサポートまでとにかく全 てをこなすことが求められます。能のお 稽古は師匠の隙間時間でつけていただく というシステムでしたね。


 -辛い・辞めたい、と思ったことはあり ませんでしたか?

実は住み込みを始めた初日から毎日辞め ようと思っていました。それでも「明日 こそ辞めよう」と思うたびに「ここで辞 めたらこれからの生活はどうなるのか。 何よりもあの時、悩み抜いて辞表を出し て、能を究めよう、と決意した自分が可 哀想だ」と思う自分もいました。もうそ のあとは意地で続けましたね。
理不尽だと思うこともありました。それ でも能舞台に立つたびに辛さが帳消しに されるほど喜びを感じる自分を見出しま した。今では「もし神様がいるとするな ら敢えて試練を下さっているのかも知れ ない。これを我慢すれば何か成長出来る のかな」と思うようになりました。


—本当にポジティブで、メンタルが強い のですね。

もちろんポジティブ思考ばかりでは心が 持ちませんから、時には自分にご褒美を あげたりもしています。これは非常にオ ススメです。 今日は頑張ったな、疲れたなという時に は自分を誉めてあげてください。もちろ んポジティブ思考ばかりでは心が持ちま せんから、時には自分にご褒美をあげた りもしています。
私の場合の一番のご褒美はアイスです。住 み込み時代の苦しい時も、今能の公演前の 逃げ出したくなるような時にも「これを乗 り越えたらアイスを食べよう!」といつも 考えていました。


(2)能楽師としての探究心 昔から好奇心が旺盛な一方、嫌いなことに 対しては全く触れない、という宮内さんで すが、疑問から入った能に関してはとこと ん追求する姿勢が見られました。


―能に関して重視していることはあります か?

能は感性を研ぎ澄ますことで演技に色彩を 持たせられる芸術です。能の主人公という のは8割が亡霊や怨霊なのですが、幽霊とい う不確かなものだからこそ、演者の感性が 求められます。そのため時間が空けば美術 館や博物館に足を運ぶようにしています。 例えば黒田清輝の『湖畔』という作品で、 女性の背景に川と陸地がありますよね。そ の境界の色彩がぼやけて曖昧なところが能 ではとても重要になってくるんです。こうい ったぼやけたものへ思いを馳せ、感覚を研 ぎ澄ませることが演者の血肉となってゆく と思うのです。


―繊細な感性が求められるのですね。能楽 以外にも鑑賞に行かれることはあります か?

先ほど挙げた絵画鑑賞とクラシック鑑賞な どでしょうか。クラシックを鑑賞する際に 特に注目するのが指揮者です。オーケスト ラの団員をまとめて指揮する指揮者のメン タリティーに興味があります。
そこでもやはり何か能に取り込めることは 無いか、と探しながら見ていますね(笑) 例えば指揮者の「間(ま)」の扱い方、つ まりクラシックでは休止符になるのです が、その休止符を指揮者がどのように 「間」に変えて表現するのか、指揮者が作 ったこの間隔を団員たちはどう解釈して弾 くのだろう、と考えながら聞いています。 能の表現においてもこの「間」が重要で、 型と型の間の一番気が抜けてしまうところ に気を付けていますね。だから、「間」で 勝負している他の芸術や文学、歌舞伎など を見て感覚を研ぎ澄ますようにしていま す。


(3)現在のお仕事と日常

2011年、晴れて8年間の修行を経て独立を 果たした宮内さん。現在の仕事、日々の過 ごし方、今挑戦していること、そしてこれ からにつながる目標についても伺いまし た。


ー現在のお仕事について教えていただけま すか?

現在は能楽師として舞台に立つ仕事、能面 や能装束を身につけ舞うことをメインにし ています。それ以外にも先輩方の舞台に地 謡(コーラス)や脇役として参加している ほか、楽屋で他の能楽師の方の準備を手伝 う仕事もありますね。この楽屋での仕事も もちろん沢山ありますので、自分の舞台と 他の能楽師の方の発表準備に伴う出勤が今 の仕事生活の大部分を占めています。舞台 関係の仕事以外の時間はお弟子さんに教え ています。

ーお休みの日はありますか?

いえ。舞台は週末・平日関係なくあります し、空き時間に弟子の稽古の 時間を組んでいるため、休みの日というも のは全くないんです。それに自分の公演は 自分で企画・運営・宣伝までしなければな らないので、とにかく隙間時間をフルで有 効活用している感じですね。


—年中無休ですか。驚きです。

また自分の能の公演と言っても関東だけに 止まりません。能楽の普及のための講座も しているので地方に出向くこともありま す。中でも定期的に参加しているのが東日 本大震災の復旧を願う「復旧祈願公演」で す。そう考えると本当に能漬けの毎日を送 っているなと改めて思いますね。 でも、ハードな毎日だからこそ公演前に体 調を崩さないよう体調管理と筋力トレーニ ングは日々欠かさず行っています。


(4)宮内さんの挑戦 能楽師として多忙な生活を送る中、宮内さ んは海外への能の発信活動を能楽界で訴え 続けているそうです。能楽社会の中で声を 上げ続ける宮内さんの挑戦について語って いただきました。


ーなぜ海外発信にこだわるのでしょうか?

国際政治において、私は人の心が大事だと 考えています。心・文化レベルで分かち合 う交流を重ねている限り、絶対に争いが最 悪な状態まで発展することはないと思うん です。だから私は能を発信することに重き を置いています。しかし、これまでも海外 位発進に関する提案の10件中8件は採用されませんでした。

 

ー能楽は海外への普及活動に後ろ向きなの ですね。

能楽界では自分たちの守ってきたものを次 の世代に渡していくことが重んじられてい ます。海外に普及しようとすることでこれ までの「能楽」のあり方・流れが崩れるの ではないかと恐れているのだと思います。 もちろんそうした保守派の力により、700 年も古典芸能として生き残れたという面も あります。それでもやはり、私は海外の方 にも能楽の魅力を知っていただきたいで す。そのためにこれからも海外に能を紹介 することに対し、能楽師の方々が納得する 理由を模索しつつ説得し続けていきます。


ーなぜそこまで信念に従い、自分の主張を 続けることができるのでしょうか。周囲の 意見の流れに逆らう際に怖くなることはあ りませんか?

もちろん怖いです。「お前ごときが能の伝 統を崩すんじゃない」と怒られる時が一番 心に刺さります。

でも、意見を通すためにはわかってもらえ るまでやり続けるしかないんです。その代 わりやみくもに進めるのではなく、相手の 心に寄り添って戦略を立てたり、時には自 分よりも能楽社会で意見を通す力を持つ師 匠に動いていただいたりと工夫を重ねるよ うにしています。


ーもし海外での発信活動が実現した暁には 将来こういったことがしたいなど目標はあ りますか?

そうですね。「普及」という上から目線な あり方ではなく、同じ空間を共有し楽しむ 形で一緒に能楽と触れ合っていけたらと思 っています。


(5)宮内さんのこれから

これまでを振り返り女の園の女子大学から 男社会の官庁へ、そこから師匠の家の住み 込み修行、さらに保守的な能楽の社会へと 次々に環境を変えてきた宮内さんですが、 次はどこへ向かうのでしょうか?

 

ー振り返ってみると様々な環境を経験され てきた宮内さんですが、どのように順応さ れているのでしょうか?
とにかく相手に気を使うことです。この人 は何が好きか、何をしたら喜ぶのかを考え て相手に不快感を与えないことです。 これは日々の生活の中だけでなく、舞台に もつながります。私たち能楽師は舞台の上 で相手の動きや互いの呼吸を合わせるとい う目に見えないコミュニケーションを膨大 な量でやり取りしています。日々他者が求 めることを察知する能力は自分のためだけ でなく心の修行の一環でもありますね。


ー日々が訓練ということですね。きっとこ れからもますますご自身を磨かれると思い ますが、現在目標に掲げられていることは ありますか?

海外での普及活動でも触れましたが、一緒 に共有するという感覚で多くの方と魅力を 分かち合えたらと思います。そして他の姿 は望まないので、とにかく今と同じように 能舞台に立ち続けていたいです。 そして可能な限り一生涯続けていけたらと 思います。そういう意味では生涯をかけて 極めたいと思う、夢中になれるものに出会 えたことは本当に幸せなことだと思ってい ます。偶然的なものではありましたが、能 楽との出会いには本当に感謝しています。

ー最後に、津田塾生にコメントをお願いします!

津田塾生はみんな真面目で、厳しい授業にも耐えて、大量の課題もこなすし、徹夜をし ますよね。それは本当に偉いことだと思います。それなのになぜか多くの人が劣等感を 抱えているように思います。「私には無理だから…」と。でもそのように自分の限界に 勝手に線引きをすることは勿体無いことだと思うんです。

「どうせ死ぬわけじゃないん だから、とりあえずやってみよう!」そう思ってチャレンジをしてください。私の経験から言わせていただくと、やらずに後悔するより、やって後悔することの方が100倍ス ッキリします。でもずっと頑張り続けると疲れてしまうので、必ず自分で自らを褒めて、ご褒美をあげてくださいね。

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